今夜、メランコリックにつき。

アラサーのアンニュイな日常。

昔の自分を癒すこと。

こんにちは。
今回は、写真整理を兼ねてフォトアルバムを作りを通じて気づいたこと、
幼少期の願望を大人になって満たす事の複雑さを感じた事です。

私は写真が撮る事が大好きで、携帯のカメラはもちろん、一眼レフを持って散歩をしたり、被写体をお願いしてポートレート撮影をする事も楽しい。
基本的にはわが子、愛鳥、作った料理、食べた物の記録の日常がほとんどで、似たような写真を何枚も撮って整理に困る事はよくある。
でも整理しない事には溜る一方やからね、一年のフォトアルバムを、上半期下半期に分けて作るようにしている。
言うてもほとんどわが子の成長記録なんやけどね。
そんな話を以前から夫君に話していたし、これまでのアルバムを実際見てもいた。
そして「いいなぁ」「いいお母さんじゃーん」と言うてくれるので、私もまんざらでもなかった。笑

つい先日も数日かけて去年のフォトアルバムを作っていた。
去年といえば、私が夫君と結婚をした年で、一緒に暮らした年でもあった。
ここ二年ほどのアルバムには、ちょいちょい彼氏である夫君も映る写真を選んで載せていた。
でも、これはわが子の成長記録なので、わが子と一緒に写っている写真に限っていた。
膨大にある娘の写真を眺めていると、それは本当に日常的で
寝起きや、すねたり、泣いたり、怒ったり、ゲリラ豪雨に偶然あってしまいびしょ濡れになった瞬間や、大好物を頬張る表情や、「ママ見て!!!」と披露した体を張った一発ギャグとか、すごいしょうもない事とか。
子どもの成長記録の写真なんてそんなものやろうと、何も気に留めることなく
ただわが子への愛情をダダ洩れにさせていた。
そんな調子で写真厳選をしていた時、去年の結婚後、家族で出かけた先の写真は、子供のような行動をとっている夫君の写真が多くあった。
だだっ広い公園の遊具を真顔で占領したり、それをわが子が冷めた目で見ていたり
大きなアスレチックの子供向け滑り台を満面の笑みで滑り降りてきたり
河原で石をひたすら積んだり……していた。
それは、彼の『無邪気さ』という特性がそうさせているのかと思っていたけど
こうして写真を見返すと、どうも違うな?と思い始めた。
彼のとる行動は、子供と一緒やな~という印象を強く受けた。
この子どもというのは、お母さんが見守っている安心できる環境で遊ぶ年頃…んー、だいたい2.3歳ぐらいをさしているのだけど、
だいたい自我が芽生えて歩き出せて、自分でしたい事をしだす年齢かな。
その時の状況と、彼のとっている行動は、とてもよく似てるなぁと感じて、それを考えていた。
何故なのか。
何故、いい年の大人の男が、こんなに幼稚なのかと。
それは、つまり、幼稚な年齢の頃に、こうして満足にいくまで遊べていなかったのではないか?と思った。
それは、きっと、母親の独占ができなかった事なのかもしれないし
両親に遊んでいる自分を見てもらって褒めてもらうという願望が満たされてなかったのかもしれない。
もしかしてずっと一人遊びをして育ってきたけど、実は両親にいてほしかったのかもしれない。
全て私の勝手な想像やけどね!
でも、写真に写る彼は、私という強い信頼関係がある人間に見守られ、安心して行動をうつせ、その行動を非難されるわけでなく、見逃されるわけでなく、しっかりと見守ってもらっている事で、欲を満たしているような気がした。
私がカメラを向け実際にその画像があるのだから、見逃してもないどころか、がっつり見ている状態ですもんね。

私は、自分の昔の傷を癒す時、特に幼少期の自分の傷を見つけて対峙・癒す時
頭の中に当時の自分に話しかけるようにしている。
「大丈夫よ。私生きてるし、今楽しいし。その時は確かにめちゃくちゃ辛かったし嫌な思いしたね。我慢して偉かったね。でも、もう大丈夫。あなた(幼少期の自分)のおかげで私は強くなったよ~ほら~」
みたいにね、話しかけて、その時の嫌な思いや辛かったことをとことん見つめて、分解して、一つ一つ「だいじょうぶ!」って言ってくようにしている。
例えば、私は幼少期、母と父が夜に仕事で、祖父たちと食事をする時、家族と離れた所に座らせられてたりしたねんけど、それもね、頭の中で当時の自分に会いに行って、隣に座って一緒に食べる。
なんなら、好物めっちゃ差し入れとかする。脳内差し入れ。笑
そんで「もう一人じゃないし、私がいるし、問題ないね」「ちゃんとお母さんには私がチクっててあげるから」「私がじーさんに中指たててあげるから」「その代わり、田舎のじーちゃんの真横は、何年経ってもあなたの特等席やからね。やったね!」って。笑
その時抱えてた寂しさや、嫌と感じた状況はもう変わらないから、だからずっと抱えていく事になるやん。もし、それが和らぐことで、当時の私が少しでも報われて、今の私の心が軽くなって、ちょっとでも生きやすくなるなら、それに越したことはないと思ってる。

自分の傷は、結局自分で癒すしか方法がないもの。
自分以外はその傷の深さも、苦しみの深さも、抱えている深さも表面しか理解してあげられない。彼の抱えているものも、私には同じくで、表面しか理解ができない。
そういうものだと思っている。
話をして、気付きを得たり、すっきりしたり、泣いたり、落ち着いたり。
そこから次のステップ…、例えば整理をしたり、分析したり、自分と向き合ったり、認めたり、許したり…それに進むのは、必ず自分自身でないとあかんのよ。
本当の意味で、抱えているものを癒せるのは、自分だけで
誰かが殻をむりやりこじ開けてくれるのを待ってるのは、残念ながら、期待はしない方がいい。解決にはならないから。
でも、嬉しい事に殻の外からノックをしてくれる人はいるからね。何度も何度でも。
それが例え火の中でも、嵐の中でも、悲しみの中でも。
でもその人たちも、状況が変わったり時が過ぎればノックをしなくなる。
みんな自分のことがあるし、ノックをしてる人だって何かを抱えているし、他にも優先すべきことがあるから。
いつまでもかまってられんからね。
だからこそ、あらゆる状況でもノックをしてくれている人達は、大切にしないと!と強く想うし、ノックしてくれたら応答したいと思う。



アルバムに、子供のように遊ぶ彼の写真をたくさん選んだ。
それを見て、嬉しい?恥ずかしい?それとも、やめろよー!ってなる?
彼は「嬉しい」って答えた。
つまり、少し満たされたんやね。心が。
じゃぁ幼少期の僕に言ってあげて。嬉しかった事。それによって今の自分の心が喜んだこと……。



話はすごく変わるけれど
このね、幼少期の頃にすごく求めていた事・満たされなかった事って、セックスで少しだけ満たすことができると思ってるのよ。私。
全部が全部ではないけれど、セックスの性嗜好って、元をたどれば、その頃の不満や我慢、手に入らなかった事、衝撃的やった事みたいにとっても強く感情が揺さぶられた出来事が元になっていると思ってるんよね。
それもあって、今回の彼の行動には納得がいったし、性嗜好と繋がった!!!!と思ったよ~\(^o^)/



さ、寝ようかな。
最近は私の日常も満たされている。
色々自分の中で踏ん切りがつけれた感じがする。
ここまで、よく頑張ったと思う。
褒美に、大好物のスイカをお腹いっぱい食べようと思う。
そんな妄想をしつつ、寝るとする。
おやすみなさい。良い夢を。



終わり。